言の葉。
自分が産まれ落ちた瞬間から定められた運命があり、その運命と環境に翻弄される人生があったとして。
抗える術は自分自身に『芯』を宿せるか、宿せないかの違いで、運命が変わるのかなと思う。
聡いとか、聡明とかと言う、賢さをオプションで持ちつつ産まれ落ちたら、ビジュアル的なオプションはつかないよねと言う正論は理解し得るけれど、それを持ち合わせてしまった人間は幸せだという、正論は、ちと、違うと思う。
妬みや嫉みがついてまわる、人生を想像できるのか、できないのか。
平等性が損なわれている現実があるのにも関わらず、そこには触れられず、不条理を全うせよと言う世界だ。
ただ優しい世界で生きたいという、初志貫徹があるのに、そこを注視されず、問題となるのは自分自身の行いが他人を不快にさせてしまう自分自身の存在があって。当たり前にある、育児問題、家庭環境、その他諸々。そんな当たり前があるのに。
…一体、誰が理解してくれるのだろうか。そんな問いさえ消し去り、生きて、他者を理解し続ける人生に共感性と理解は何処に行ってしまったのか。
そんな、はてなさえ、浮かばずに生きているのに、それでも尚、誰かという存在に共感し続ける。。
私が頼ってしまった友だちがおる。
『キチ親だな』その一言に救われ、守りたい『姉』という存在に対しては共感を示してくれた。
なんだか、どでかい存在に出会えたことが嬉しくて。
捨てたもんじゃない、人生だと、初めて想えた。
残したい言の葉。