福祉という、幸せは、誰の元にも在る。
書く行為とは、人間が人間として在るべき行為である。
そんな、一冊の本に出逢えて、頭と心で想う出来事は空気を吸う。その行為と同じように、書いていいのだと知ったので、心置きなく。書かせていただく。
近所のスーパーが一時的に閉店をして、地域住民と私が困った。
何故なら、地域のスーパーとは、地域のニーズを捉えた上で存在してくれている訳で、一時的であっても、無くなると非常に困る。そして、最も困るのは、その地域に住む、障がい特性を持つお子さまがいらっしゃるご家庭を守る養育者であると思う。
お子さまとは、成人をしていても、養育者が保護しなければならない、何らかの障がいを持っている方を指す。
成人している自閉症を持つお子さまがいらっしゃるご家庭があったとして。スーパーへ買い物へ行かねばならぬが、自閉症という障がい特性があれば、一時的に閉店をしたお店があったとしても、「買い物に行くわよ、いつものスーパーよ!」と、言われたならば、最近は連れて行ってもらえなかったスーパーだ!やったー!行く!となるが。
着いた途端にパニックである。
場所は同じなのに知らない場所である。養育者はこの子が落ち着くまで、待ちたいと思う気持ちが全てだけれども、他者からは、うるさいな。大丈夫なの?お店側からは、警察呼ぶ?の危機である。
私は、どうか、落ち着くまで、待ってくだされと願う。知らぬ存ぜぬ方ではありますが、問題視される何かが起きたら自分の持てる力で対応しようという心構えだった。
人と環境の間に不均衡が起きて、生きづらさが生じることをストレスや障がいと捉えるのが今日での考え方であるけれど、誰にもに周知はされておらなくて、ときどき、ヒヤヒヤする。
『非常識』の一言で、どうか、片付けられますようにと。
みんなが幸せになれる世界が咲き溢れてほしい。
わたしたちは、この国に生まれ、平等に幸せになれる権利があるのだから。
誰ひとりとして、取りこぼされぬように。
さまざまなことを学び続けるんだ。
到底、まだまだ、無知だけれども。
守りたい存在があるから、わたしは学ぶんだ。その先に、笑顔が咲き溢れていく、未来が在るから。
ありがとう
清くて。無知が存在していた自分が憧れを抱いた人に対して『大好きです』と、精一杯の勇気を振り絞って伝えたあの日。えーと、えーと。。が、世界に浮かんでいて。なんだか愉快な空間が広がっていたのを記憶している。
握手を交わした、ゴツゴツを異性に対して初めて感じ取った。握手はすぐに消えてしまい、洗いたくない手は当然、すぐに洗い流されてしまうけれど。
あの瞬間の自分的最大勇気の記憶は命尽きるまで消えない。
俯瞰的や主観的には、そんな印象なのだけれど。
自分みたいなひとが憧れで、私が作るお菓子には、愛情が込められていて、美味しくて、全身全霊で大好きですと、自分の子どもかなと⁇という、年齢の少女と例えても差し支えない『少女』に、真っ直ぐな瞳で訴えられてしまったら。。
わたしは言葉を失う。
憧れてやまないひとに対して、『大好き』を伝える勇気を知っているから。
自分に対する、ネガティブな感情や否定が消えた。
全身全霊で伝えてくれた、その勇気にわたしは応えたいと思う。
だから、言葉が消える。
聡くなって、強くなって、自分が守れる母数を増やしていこうと想う。
大好きですと、本気で初めて伝えていただいた機会に遭遇して、戸惑うけれど。
ゆきんこちゃんやたけしから始まり、最近では、メリーやギンスケが心の友で、皆等しく、ぬいぐるみなのだけれど。
止まり木を求めて、今いる場所で。
生身の人間に優しさをいただいたり、あいされたり、気遣われたり。。
初体験を経験して、想うことは。
自分のフルパワーで、この子らにヒカリをと、シアワセが降り注ぎますように。全力で未来を守るという決意しかうまれない。
また、力となってくれる大人的存在の方たちには、ありがとうしか、咲かない。
大失敗であり、大好きなひとさえ、裏切れてしまえた自分が歩んだ過去が現在を連れてきてくれた。ごめんなさいしか咲かない過去にヒカリが射した。
当然に、またしても、言葉を失うのだけれど。
間違いばかりの、わたしは想う。
あなたに出逢えて、本当に良かった。ありがとう。
言の葉。
自分が産まれ落ちた瞬間から定められた運命があり、その運命と環境に翻弄される人生があったとして。
抗える術は自分自身に『芯』を宿せるか、宿せないかの違いで、運命が変わるのかなと思う。
聡いとか、聡明とかと言う、賢さをオプションで持ちつつ産まれ落ちたら、ビジュアル的なオプションはつかないよねと言う正論は理解し得るけれど、それを持ち合わせてしまった人間は幸せだという、正論は、ちと、違うと思う。
妬みや嫉みがついてまわる、人生を想像できるのか、できないのか。
平等性が損なわれている現実があるのにも関わらず、そこには触れられず、不条理を全うせよと言う世界だ。
ただ優しい世界で生きたいという、初志貫徹があるのに、そこを注視されず、問題となるのは自分自身の行いが他人を不快にさせてしまう自分自身の存在があって。当たり前にある、育児問題、家庭環境、その他諸々。そんな当たり前があるのに。
…一体、誰が理解してくれるのだろうか。そんな問いさえ消し去り、生きて、他者を理解し続ける人生に共感性と理解は何処に行ってしまったのか。
そんな、はてなさえ、浮かばずに生きているのに、それでも尚、誰かという存在に共感し続ける。。
私が頼ってしまった友だちがおる。
『キチ親だな』その一言に救われ、守りたい『姉』という存在に対しては共感を示してくれた。
なんだか、どでかい存在に出会えたことが嬉しくて。
捨てたもんじゃない、人生だと、初めて想えた。
残したい言の葉。
まだ見ぬ地。
言葉が心にずどーーんと、刺さる瞬間がある。
昨日から解けそうで解けないモヤモヤがあり、何だろうなと頭を傾けていた。
福祉とは何か。
社会福祉とは何か。
その二つが頭をぐるぐるまわり答えを模索していた。
わたしには夢があって、その夢の種を蒔いて下さった方はシリアの空の下で逝ってしまわれた。
平和とは、どうしたら守られるのだろう。戦争で多くの命が奪われないためにできることはなんだろう。
他国より自国の無関心に関心をと放たれたマザー・テレサの言葉。
わたしが抱いた夢の実現のためには、自分が人格者にならなければならなくて、その立ち位置へ行くのならば、それなりの覚悟が必要であることを今日、教えられた。
ずどーーんと、心に響いた言葉に目眩がしたけれど、どでかい夢を掲げたもんだと心底、笑った。
課題が見えたので、登れそうな気がしたから行ってみる。
まだ見ぬ場所へ。
真夜中の内側(おにぎり編)
手のひらで小さく三角に握られたシャケフレーク入りの白とオレンジが混ざりきっていない、おにぎり。
それがわたしの最初のおにぎり。
それまで食べていた、ごはんは、あわやきびみたいな黄色が存在する、ふわふわごはんだった。甘くて柔らかくて、白いふわふわが大好きだった。記憶にはないけれど、白米ばかり食べる幼児であったと聞き知った。
はじめて認識し、記憶に留めたおにぎりは、黄色が存在しないガチガチのご飯と香ばしさが存在しないオレンジ色の魚味が調和していない、とても美味しくない、おにぎりだった。その刹那、大好きな白いふわふわが消滅し、ご飯という食べ物は今後、口にしないと頑なに決心した瞬間であった。
言語にならない感情からとき離れた最近。脳内で理解した。
あの、黄色が存在する白いふわふわは、玄米を精米する過程の違いであり、米を研いでから水に浸ける時間の差異が関係しており、香ばしさとはシャケフレークと焼き鮭の違いだったと。
なぜ、その違いにこだわるのか?それは、お昼に食べる自分で作ったおにぎりが、喉に詰まるからである。更年期?水分不足?あらゆる原因を鑑みても、問題解決には辿り着けず、米からパン文化への移行がはじまり、腹が満たされななという問題に直面していた。
…とある日。いつもの如く、腹を空かせ、満たされない腹具合を職場で伝えると、アルミホイルに包まれたおにぎりをこっそり渡された。
わたしは驚いた。アルミホイルが四角の形状をしており、それはまるで、ホイル焼きの形状であり、それが到底、おにぎりであるはずがなかった。しかしながら、ホイル焼きであるはずの、其れを丁寧に開けてみると、海苔がしっとりとしており、紛うことなく、香り高きおにぎりが存在していた。
鼻を膨らませ、思いきり空気を鼻穴から吸い込み、海苔の香りと諦めきっていた白いふわふわの存在を確認した。
ごくりと、生唾をのみ、わたしは食した。それは…
おにぎりだった。
あまりの懐かしさと、美味しさが、走馬灯のように、わたしの脳内を駆け巡った。
わたしはおにぎりの真理を知った。一言で表されるおにぎりとは、コンビニのそれであったり、精米された米を時短で炊いたおにぎりが状態化されておる。
古き良きかは判定できないけれど、昭和と言われた時代におばあちゃんが作ってくれた『ぼく夏的』おにぎりは、黄色が存在しており、海苔が香り高く、ふわふわした白と、七輪的なもので焼かれた鮭が幸せを彩ってくれていたのだの知った。
この美味しい幸せを埋没させてはいかんと強くおもうから、わたしは美味しいおにぎりをにぎり続ける、おばあちゃんになって行こうとおもう。
これからという未来を生きる子どもたちのみらいに笑顔が絶えぬように。
そんな内側を吐露してみる。
真夜中の内側
とうもろこしの味をイメージするとなぜか、夏を思い出す。
昭和終末期世代の夏休みはとうもろこしをかじる夏がキンチョーの夏と同意義なのかなと思ったりする。
昨今、NHKの受信料で盛り上がったり、盛り下がったり…。そんなやほーニュースがあったりする。
不払い金に対して罰金をという、正当性に対して疑念が浮かぶ。
さまざまなネット環境による動画配信に関する選択制は叫ばれなかったけれど、選択制への、自由度は増した。
そんな世界の荒波があり、個人の選択により、世界は広がった。
そんなさなか。国営放送を謳う、どこぞの放送局が来春からは受信料を無視し続ける世帯に対して、選択制はないにも関わらず、罰金を設けることが確定しておる。
観てもいないの、観たくもないのに(暴挙に対して)抗う術がない。
国民一律の受信料を平均される矛盾を誰が問うてくれるのか。
国民放送の一律化に対する反論は誰が問うてくれるのか。
そんな疑問を並べると。『左寄りの人間だ!』という、レッテルを貼られてしまう。
右や左は悪くなく、ネガティブになり得ないのに。なんだか、世界はそんな感じで。
苦しい時に苦しくて、幸せの在処は何処にありますかと?ただ、純粋にお伺いしたいだけなのに。誰かが『悪』にならないと、立ち回れない世界だ。
無関心なのに、過干渉な世界が蔓延しており、優しくない世界だ。