真夜中の内側(おにぎり編)

手のひらで小さく三角に握られたシャケフレーク入りの白とオレンジが混ざりきっていない、おにぎり。

 

それがわたしの最初のおにぎり。

 

それまで食べていた、ごはんは、あわやきびみたいな黄色が存在する、ふわふわごはんだった。甘くて柔らかくて、白いふわふわが大好きだった。記憶にはないけれど、白米ばかり食べる幼児であったと聞き知った。

 

はじめて認識し、記憶に留めたおにぎりは、黄色が存在しないガチガチのご飯と香ばしさが存在しないオレンジ色の魚味が調和していない、とても美味しくない、おにぎりだった。その刹那、大好きな白いふわふわが消滅し、ご飯という食べ物は今後、口にしないと頑なに決心した瞬間であった。

 

 

言語にならない感情からとき離れた最近。脳内で理解した。

 

あの、黄色が存在する白いふわふわは、玄米を精米する過程の違いであり、米を研いでから水に浸ける時間の差異が関係しており、香ばしさとはシャケフレークと焼き鮭の違いだったと。

 

なぜ、その違いにこだわるのか?それは、お昼に食べる自分で作ったおにぎりが、喉に詰まるからである。更年期?水分不足?あらゆる原因を鑑みても、問題解決には辿り着けず、米からパン文化への移行がはじまり、腹が満たされななという問題に直面していた。

 

…とある日。いつもの如く、腹を空かせ、満たされない腹具合を職場で伝えると、アルミホイルに包まれたおにぎりをこっそり渡された。

 

わたしは驚いた。アルミホイルが四角の形状をしており、それはまるで、ホイル焼きの形状であり、それが到底、おにぎりであるはずがなかった。しかしながら、ホイル焼きであるはずの、其れを丁寧に開けてみると、海苔がしっとりとしており、紛うことなく、香り高きおにぎりが存在していた。

 

鼻を膨らませ、思いきり空気を鼻穴から吸い込み、海苔の香りと諦めきっていた白いふわふわの存在を確認した。

 

 

ごくりと、生唾をのみ、わたしは食した。それは…

 

おにぎりだった。

 

あまりの懐かしさと、美味しさが、走馬灯のように、わたしの脳内を駆け巡った。

 

 

わたしはおにぎりの真理を知った。一言で表されるおにぎりとは、コンビニのそれであったり、精米された米を時短で炊いたおにぎりが状態化されておる。

 

古き良きかは判定できないけれど、昭和と言われた時代におばあちゃんが作ってくれた『ぼく夏的』おにぎりは、黄色が存在しており、海苔が香り高く、ふわふわした白と、七輪的なもので焼かれた鮭が幸せを彩ってくれていたのだの知った。

 

この美味しい幸せを埋没させてはいかんと強くおもうから、わたしは美味しいおにぎりをにぎり続ける、おばあちゃんになって行こうとおもう。

 

これからという未来を生きる子どもたちのみらいに笑顔が絶えぬように。

 

そんな内側を吐露してみる。